諸橋茂一の言語道断

<その1>

これではいけない。「左翼・反日日本人主導の憲法調査会」

 去る5月12日、金沢の全日空ホテルにて、「衆議院憲法調査会金沢地方公聴会」が開催された。
 その公聴会に、「事前に衆議院に申し込みをして、承認が得られれば、傍聴人として、参加する事が出来、その席で、意見を述べる事も出来るかも知れない」と言う事を馳浩衆議院議員の秘書である関川氏から伺い、申し込んだ処、傍聴人としての入場整理券を手に入れる事が出来た為、その調査会に参加した。
 これまでに全国の主要都市数カ所で開催されてきた、とのことであった。
 その概要を以下に記載致します。

 同日午後1時、中山太郎団長(会長)の挨拶で開会された。その後、5名の意見陳述者の意見陳述があった。それらの5名の内、憲法を改正すべき、という意見は石川県・小松市の山本利男氏と福井県の島田洋一氏の2名だけであり、他の3名(岩淵正明・弁護士、松田知美・弁護士、島野幸雄・大学教授)は全て憲法改正反対の立場の人間であり、社民党並びに日本共産党及び朝日新聞に代表される、いわゆる左翼・反日日本人の代表の様な人間達であった。
 憲法改正に関する世論調査では、「憲法改正すべし」という意見が60%を越えているにも拘わらず、何故、同日の調査会において、憲法改正すべきという立場の意見陳述者が5分の2、つまり40%でしかないのか?この事は多数の原理に従うという民主主義の原則に大きく反する事であり、先ずその事が非常におかしいと言わざるを得ない。
 山本氏の意見概要は、
「今の憲法は、権利のみが際立ち、義務が少なく軽い。道徳教育がなっていない。(我が国には)宗教法人が20万もあるにも拘わらず、宗教教育がなっていない。もっと、適切な宗教教育が必要である。(我が国の安全を他国に依存するという)今の憲法の前文は全くなっていない。郷土愛、愛国心、利他の心を涵養すべきである。親子の敬愛の念がなっていない。現憲法は押し付けられたものである事は明らかである。現憲法は(旧)(帝国憲法の改正手続きによって)改正されたものではない。現憲法は無効である。国民が改正発議出来る様にすべきである。憲法を改正せずにこれまできた事は、国会の怠慢である。」
 以上の様な内容であった。必ずしも憲法改正の是非並びにその理由ばかりではなかったが、現在の我が国の教育の問題点に関する内容も多く、山本さんのお話の内容には共鳴出来る点が多くあった。
 その次に、北朝鮮により拉致され、昨年帰国された蓮池さんのお母さん(ハツイさん)が、本日の公聴会に参加される予定であったが、ハツイさんのお母さんが急にお亡くなりになった為、参加出来なくなった旨の説明があり、その後、ハツイさんが同日発表しようとしておられた内容が朗読されました。その概要は以下のとおりです。

「我が国に、基本的人権の保障など無い。昭和53年7月31日に北朝鮮に拉致された私の息子は24年ぶりに帰国したものの、孫達は未だ北朝鮮に拘束されたままである。北朝鮮に拉致された多くの人々が未だ北朝鮮にいる。北朝鮮による拉致事件は我が国の国家主権が完全に犯されていることである。」
 以上の様な内容でした。
 北朝鮮による拉致事件は、以前にこの「言語道断」でも取り上げている通り、全くとんでもない事である。我が国がこの様な言語道断の国際犯罪に対して、(昨年の5名帰国以降)何も手が打てない状況は実にお粗末この上ない事であり、全く独立国の体を成していない。御家族の方々の御心中を察するに余りあり、一体我が国の政府は何をしているのか?強い憤りを感じざるを得ない。
 国会議員と名の付く人間ならば誰でも、「国家の最大の使命は国民の生命・安全・財産を護る事である。」と答えているが、我が国の現状は、その最大の責務・使命を果たしてしないのである。実に情けない事である。
 以前に中東のレバノンの国民が4名北朝鮮によって拉致されたようである。その時、レバノン政府は我が国とは違い、北朝鮮に対して、「我が国の国民を速やかに帰さねば、我が国は北朝鮮に総攻撃する。」と非常に強く通告した処、北朝鮮はびっくりして、すぐに一度拉致したレバノンの国民を全員帰した、ということである。
 レバノンに出来る事が何故、我が国には出来ないのであろうか?我が国の今の状況は全く国家の体を成していない。
 「家族会」の方々が、相当の覚悟で、「北朝鮮に経済制裁を実施して欲しい」と我が国の政府に対して申し入れているにも拘わらず、我が国の政府は何も出来ないでいる。我が国の政府関係者はこの無法事件を他人事の様に考えているのではないか?
 あらゆる手段を講じて、一日も早く北朝鮮に拉致された我が国の同胞を救い出す為に全力を尽くすべきである。
 その次に意見陳述した方は、「救う会」の副会長も務めておられるという島田洋一氏であった。
 島田氏の意見概要を以下に記載する。
「我々(救う会)のメンバーは拉致問題で2月に渡米した。その際、米国関係者は『拉致は完全に国際犯罪である。もしも、キューバがその様な事をしたら、米国は、すぐに軍隊を派遣させる為の計画を立てるであろう。北朝鮮に対する経済制裁を世界に向かって呼びかけるべきである。』米国はそう言っているが、我が国が及び腰になっているのは非常におかしい。自国民が拉致されたら、力づくで取り返す、という強い姿勢があれば、その事が抑止力となる。国内で、ヤクザが誰かを拉致したら、警察が力で解決するのが当たり前である。何故それが他国に対して出来ないのか?拉致が犯罪である事は明かである。軍事的オプションも選択の中に入れるのは当たり前である。集団的自衛権は行使出来る様にすべきである。今の憲法は敵前逃亡憲法である。」
 以上の様な内容でした。
 北朝鮮による拉致事件に関する内容が非常に多く、島田さんの立場上、やむを得ない面もあり、一部は憲法に関する話もあり、同感出来る内容であった。
 その後の3名の話は実にお粗末としか言いようがない内容であった。
 それらの概要は、「今の憲法は、基本的人権のあり方が明記されており、環境権や肖像権も13条で認められてきた。地方分権をもっと進めるべきである。(と言いながら、その事が明記されていない現憲法は変えるべきではない、という実にアンバランスな話)等々、とにかく何を言おうとしているのか全く分からないが「今の憲法は変えるべきではない」という話ばかりであった。弁護士の松田智美と岩淵正明も憲法の施行(しこう)の事を「せこう」と言っていた。こんな簡単な法律の専門用語を間違えるという事は余りにもレベルが低いと言わざるを得ないのではないか?
 その様な人間しか出せない憲法調査会とは一体どうなっているのか?と非常に大きな疑問を抱きながら、3人の話を聞いていたが、一事が万事で、全く馬鹿の一つ覚えの様に、「世界に誇る平和憲法を何が何でも変えるべきではない」と繰り返すばかりである。
 馬鹿な3人の反日陳述者に問いたい。「それならば、世界に誇る平和憲法がありながら、何故に、我が国の国民が100数十名も北朝鮮に拉致されたのか?」と。

 その質問に、馬鹿な3人の反日陳述者は一体どう答えるのであろうか?余りにもレベルが低過ぎて全く話にならない。
 その次に、自民党・民主党・公明党・自由党・日本共産党・保守新党・社民党、各政党の代表から意見陳述者に対する質疑があった。全て一人当たりの持ち時間は15分である。これも非常におかしいことである。議員数の圧倒的に多い自民党も、議員数の非常に少ない社民党も、持ち時間が同じ15分というやり方は非常に大きな不公平であり、民主主義の原則に大きく反する進め方である。多くの国民の支持を得ている政党と極く僅かな国民の支持しか得ていない政党が同じ持ち時間で話をするというこの事も、民主主義の原則である「多数の原理に従う」という考え方に大きく反する事である。
 各政党の代表の質疑を聞いていても、少しまともな質疑をしたのは、自民党の中川昭一くらいで、あとの政党の代表は全て聞くに値しないお粗末な内容ばかりであった。

 一通りの質疑が終わった後で、中山太郎会長より、「それでは、この後、傍聴者の中から意見を求めます。時間の関係もあるので、4名に限らせて頂きます。」という説明があった。
 傍聴者は150名くらい居たのではないかと思う。その中で、4名の中に入る事は常識的に考えて非常に難しい事である。そこで、考えた事は、中山会長より、「それでは、意見を述べたい方が居られましたら、挙手をお願いします。」との発言があれば、「間髪を入れずに誰よりも早く、誰よりも勢いよく手を挙げよう」と考え、中山会長の予期していた発言に対して、間髪を入れず、勢いよく、手を真っ直ぐに挙げた処、中山会長から「それでは貴方」ということとで、真っ先に指名を受けた。
 そこで立ち上がり、まず自分の名前を名乗った後、「今日の憲法調査会の公聴会は、半分以上が、北朝鮮による拉致事件に関する事であり、その事は止むを得ない面があると思いますが、その拉致事件に関して、これまで長期に亘り、『北朝鮮による拉致問題など存在しない』などと、全くとんでもない事を言い続けてきていた『社民党』並びにその党首である『土井たか子』が解党もせず、議員辞職もしない事は全く言語道断の事であります。」と言った処、突然私のその発言に対する強い抗議の声が会場から沸き上がった。逆に私のその発言に対して同調する声は全くと言って良いほど上がらなかった。そこで初めて、その会場にいた傍聴者の大部分が社民党や日本共産党の関係者であることが理解出来た。その事も全くとんでもない事である。衆議院が傍聴者を決める(申し込みのあった人達の中から希望者が多い場合は、それらの中から選定する)という事になっているらしいが、「社民党や共産党関係者は所謂動員的に申し込みをしている様であり、一方、自民党を中心とする所謂保守系と言われる人達は、その様な事を特別戦略的に考えもせず、実行もしていない、という事の様である。」という様な事が瞬時に理解出来た。自民党サイドの無策と言えば、無策過ぎる状況も分かり、政権政党の自民党に対しても、情けなさを感じざるを得なかった。(しかも、その後、関係者に聞いた処では、これまで開催された数カ所の公聴会の殆ど全てが、今回と同様であったという事である。自民党は一体何を考えているのか?強い憤りを感じざるを得ない。)

 私は、「その様な連中を相手にしていても仕方がない、というよりも、その様な連中に対して、本気に相手をして怒鳴りつける様な事をして、折角与えられた発言の機会をストップされ、失っては、この公聴会に出た意味が無くなってしまう」と思い、その様な連中は相手にせず、「それでは、次に進みます」と言って発言を続けた。
 「現憲法は、我が国がGHQによって占領されていた時、米国の植民地であったフイリッピンに押し付けていた憲法を基にして、僅か1週間で、マッカーサーの部下に命じて、英文で作成させた『物』を和訳させて、占領下の我が国に押し付けた『物』である、という事は衆知の事実であります。
 それだけではなく、現憲法の前文には日本語になっていない文章があります。(具体的にその部分を朗読した。)全ての法律の基本法である憲法の文章が、まともな日本語になっていない、という事は全くとんでもない事であります。
 憲法第8条と88条には、皇室財産に付いて触れられています。憲法88条には、「皇室財産は全て国家に属する」となっており、皇室財産の私有というものを認めておりません。処が、同8条には、皇室財産の私有を認める前提での文言となっております。これは、一つの事に関して、憲法の中で、全く整合性がとれていないという事であり、不完全な憲法であると言わざるを得ません。

 同24条には、婚姻と離婚に付いて記載してあります。処が、何とその文章は、離婚が最初に書いてあります。日本人の感性として、その様な文章の書き方は全く考えられない事であります。
 もう一点、同89条には、何と、『公に属しない慈善・福祉・教育に関する事業に公金を使用してはならない』と記載してあります。と言う事になれば、私立の学校や福祉施設等に国家の予算を使用してはならない、という事になります。処が、実際には、私学助成法等に基づき、私学に対して、国家の予算を毎年注ぎ込んでいます。(学生一人当たりの助成金額は非常に少な過ぎて非常に問題がある、という事ですが…)
 その私学助成法も憲法違反である、という事になります。しかし、本来、私学にも或いは私立の福祉施設等にも、堂々と国家の予算を注ぎ込むべきであって、その事を禁止している現憲法が非常に間違っている事は明かであります。以上の理由等により、問題点だらけの現憲法は一日も早く改正すべきと考えます。以上」
 と述べました。私としては、非常に真面目に真剣に、憲法改正すべきという意見を述べた訳ですが、(反日護憲主義者が殆どの為)殆ど反応無し、という様な状況でした。
 しかも、その後の3名の発言者は全て(馬鹿の一つ覚えの様に)「憲法改正反対」を唱える者ばかりでした。「憲法改正反対」とは即ち、憲法を正しく改める事に反対という事ですから、その様な人間は一体何処の国の人間か?という事になります。全くとんでもないことです。
 この様な程度の憲法調査会の公聴会を繰り返しても一体何になるのか?この様な内容の公聴会を重ねて、一体本当に我が国の将来並びに国民の事を真剣に考えた憲法改正に対する纏めが出来るのか?非常に強い危惧を抱かざるを得ませんでした。
 (山本様が触れられた事でもあり)極く当たり前過ぎて、私は、触れませんでしたが、「国民を何が何でも護る」為の自主自衛の防衛体制・安全保障体制を堂々と整備・確保出来る国家にする為にも、不完全この上ない、非常にお粗末な押し付け憲法を一日でも早く、改正しなくてはなりません。そして、二度と我が国の国民が気違い国家・北朝鮮に拉致される事のない、まともな国家を創り直さなくては全く話になりません。お粗末な押し付け憲法を何と60年近くも、一字一句変える事が出来ないできた、という事は、我が国政治家の大いなる怠慢と言う他ありません。全く言語道断です。






<その2>

政府のやっている事は経済悪化政策である

 下記の表を見て頂きたい。

                                         平成15年5月27日付

                                         産経新聞




 上記は、平成9年から同15年迄の「大手銀行の不良債権残高と処理額の推移」であるが、こんな馬鹿な事が有るだろうか?
 上記期間(7年間)において、不良債権処理総額は約50兆円である。一方、平成9年時点での不良債権残高は約16兆円となっている。50兆円−16兆円=34兆円となり、本来ならば、不良債権なるものは、とっくの昔に全て処理が完了し、差し引き34兆円もの剰余金が残っていなくてはいけないはずである。処が、何と、全く逆に同15年3月期では不良債権残高が20.4兆円となっている。一体これはどういう事なのか?不良債権処理をすればするほど不良債権が減らずに、全く逆に増え続けているのである。こんな馬鹿な事があるだろうか?
 つまり、これまで政府がやってきている事は、不良債権処理ではなくて、「不良債権拡大政策」でしかないのである。一体我が国の政府は何をやっているのであろうか?全く馬鹿げているとしか言いようがない。
 大きく経済活性化に繋がる政策は何も行わずに、ただ馬鹿の一つ覚えの様に、「不良債権処理」だけを唱え続けている。そして、経済をどんどん冷え込ませ、株価と地価をどんどん下げ続けて、不良債権なるものをどんどん増やし続けているのである。我が国政府のあまりの無策ぶりに対して強い憤りを感じざるを得ない。
 地価も金利も工事費も下がるだけ下がっている現在こそ、将来必要なインフラ整備の絶好のチャンスである。
 経済の基本は人・物・情報の動きを随時貨幣で精算することである。経済を活性化させる為に最も肝要な事は、人・物・情報等の動きを、より早く、より大量に、より活発に動かす事である。それならば、その様な考え方に基づいて、その為に必要なインフラ整備はいまこそ積極的に進めるべきである。
 (以前にも書いている事ではあるが)例えば、5年以内に「北陸新幹線」を整備(本州の中心部分に新幹線の中央環状線を整備)するとか、東京湾を大々的に埋め立てて、世界一のハブ空港を整備し、そのハブ空港と国内線の航空網を利便性良くリンクさせるとか、或いは、全国の主要都市の電線・情報通信網の地中線化を進める、という様な将来の我が国にとって間違いなく必要なものを、思い切って大きな建設国債を発行して積極的に整備すれば、その事が我が国の将来に大きく生きるだけではなく、長期間落ち込んでいる我が国の経済を活性化させる事にも必ず繋がって行くのである。
 平成に入ってから長期間、我が国政府のやっている事は、経営者としての経験が全く無く、実態経済が全く分からない政治家や大学教授が集まって、非常にピントのズレた事ばかり繰り返しているだけである。全く言語道断である。



<その3>

                  続・「夏休み帳の件」

 昨年から、この欄で「歪んだ夏休み帳の件」を何度か取り上げてきたが、今回で一区切りとしたい。
 昨年から、この件で、石川県の教育委員会並びに山岸教育長と石川県・谷本知事に対して、非常に厳しく抗議を続けてきた。そのお陰で、と言うべきか、当県の学校教育に対する姿勢が明らかに大きく変わってきた。
 まず、新年度に入ってから、当県の教育委員会の人事が大きく変わってきた。当県教祖の幹部が相当期間、県教育委員会の次長を務めていたが、4月の人事で更迭された。更に、同じく新年度に入ってから、去る4月23日、県教育委員会が、県下の小・中・高校の校長先生を集めて、「学校長が、しっかりと主体性を持って学校運営に当たってもらいたい。教師に対する観察・指導並びに教材の選定等に付いても、校長が指導力を発揮してやってもらいたい。万が一に、教師の中で、学校長の指示等に素直に従わない様な事があれば、県教育委員会に速やかに報告してもらいたい。」という様な訓辞を強く申し渡した様である。
 県の山岸教育長が、相当腹をくくって、当県の教育正常化に真剣に取り組んでおられる様子が小生にも伝わってきている。
 今後は当県の教育も何とか少しずつ、良い方向へ・正常な方向に進みそうである。今後の山岸教育長の手腕に大いに期待したい。同時に、その為のお手伝いであれば、歪んだ教育を続けてきた県教祖に徹底的に抗議する事を含めて、どの様な事でもお手伝いをして行きたい。
 古今東西を問わず、「教育は国家百年の大計」である。当県の教育正常化を強く願いつつ、「歪んだ夏休み帳の件」をひとまず、小休止としたい。但し、日教組の歪んだ教育が続いている我が国全体の教育を何としてでも正常化する為には、この様な状況を何としてでも全国的に創り出して行かねばならない。
 この問題を紙上で大きく取り上げて頂き、この様な状況を創り出す為に、側面より大きくバックアップして頂いた、地元の北国新聞社の飛田秀一社長にも、(お会いした際にも御礼を申し上げたが)この社報紙上においても心より感謝を申し上げたい。





<その4>

      どうして問題なのか?「住基情報で自衛官募集」

 去る4月23日付けの各紙に、「自衛官の募集に関して、石川県の七尾市の様に、保護者名や健康状態など個人のプライバシーにかかわる情報を防衛庁の地方連絡部に提供していた事が非常に問題である」といった内容の記事が出ていた。個人の情報に関しては、住所・氏名・生年月日・性別以外は提供してはならない、という事だそうだ。
 しかし、その事が何故問題なのか?全く理解に苦しむ、と言わざるを得ない。
 自衛官や警察官或いは国・中央官公省庁並びに地方の行政自治体及び公共機関等の職員を採用する場合は、重要な機密事項等が外部に漏れない様にする為にも、本人に関する事はもちろん、その家族に関する情報も出来る限り知る必要がある。そうしなくては、本人の過去や家族等に関する事を何も知らないままに、安易に採用してしまった場合、その後、機密情報漏洩等の問題が発生する可能性も高くなるという事は危機管理という観点からも、考えて当然の事である。いや、というよりも、その様な事も充分考えて採用・人事を考えなくてはいけない。まして、総力を挙げて国家・国土・並びに国民の生命・安全・財産を護らなくてはいけない防衛庁の職員を採用する際には尚更のことである。そうしなくては、善意の多くの国民を護る事が出来ない。「自衛官採用に際して、本人の住所・氏名・生年月日・性別以外は知ってはいけない」などという考え方は完全に間違っている。(ただでさえ、昨年、防衛庁内の機密的事項が外部に漏れる、という問題が発生しているにも拘わらず)その様に馬鹿げた考え方で、自衛官の採用業務を続けていたら、我が国は、将来必ず大きな禍根を思い知る事になる。この様に馬鹿げた事も我が国があまりに平和ボケしている弊害の一つである。全くお目出度いにも程がある。言語道断である。




<その5>

     「夫婦別姓制度と靖国代替施設は実現しない」

 (これまでにも、本紙で標記2件に対して強く反対の考えを述べてきてはいるが、)昨年、9月の初旬、標記2件に反対する為、首相官邸の福田官房長官に抗議の電話を入れた処、応対に出た齋藤秘書官が、「森(前)首相の事務所を通してもらいたい。」ということであったので、森(前)首相の事務所を通して、改めて、福田官房長官宛に強い抗議の電話を入れた。すると、再び応対に出た齋藤秘書官が、「文書にて送って欲しい」と言うので、文書にて、標記2件に付いて、反対する理由も明記して、首相官邸にファックスを送った。(ファックス番号は齋藤秘書官に確認した。)
 その後、(衆知のとおり)9月17日に、小泉首相が北朝鮮を訪問し、金正日と会い、金正日が(日本人として、絶対に許す事の出来ない)日本人拉致を認め、北朝鮮に拉致されていた5名の方々が帰国された。その後、北朝鮮の拉致問題対応で、政府の方も大変だろうと思い乍ら、福田官房長官よりの返事を待っていた。
 しかし、11月になっても、何の連絡も無い為、11月末、改めて首相官邸に電話を入れ、標記2件に付いての返答は一体どうなっているのか確認した処、「今の処、政府の考え方としては、夫婦別姓法案を通すつもりはありませんし、靖国神社に替わる施設を創るつもりもありません。」ということであった。本来であれば、この様な「政府に対する抗議に対して、個別の返答はしない」ということだそうだが、「当方は、貴方の指示どおりに森(前)首相の事務所を通して正式に文書で抗議をさせて頂いた。いやしくも、(前)首相の事務所を通しての抗議に対しては、キチンと誠意を持って答えるべきでは無いですか?」と強く申し入れた結果の返答である。
 全国的に、標記2件に対して強く反対する運動が繰り返されているが、首相官邸のこの返答が嘘でなければ、標記2件は通らない(出来ない)という事になる。それなら良し、としなくてはいけない。我が国の政府も良識を持っていた、ということになる。





 4月に、当社社長 諸橋茂一による講演『大東亜戦争の背景とインドネシア独立』が、21日に「小松基地金沢友の会」総会にて(於:APA金沢駅前ホテル)、同26日に北陸大学学生セミナーにて開催されました。下記にその様子の一部を掲載致します。





















講演要旨

     「我が国の近代史の流れと日本人の誇り」

                                 平成15年4月26日(土)
                                             諸橋 茂一
 (去る4月12〜16日、インドネシアを訪問し、インドネシア独立戦争に参戦された(元)日本兵お二人にお会いしてきました)


1.大東亜戦争の背景
@ 1853年(嘉永6年)       ペリー浦賀に来航。
A 1967年(慶応3年)       大政奉還。
B 1868年(慶応4年)(明治元年) 明治維新。
C 1877年(明治10年)      西南戦争。
D 1894年(明治27年)      東学党の乱。 
 1884年(明治17年)に
締結された「天津条約」では、日本も清国も朝鮮に派兵する場合は、事前にお互い通告する、という事になっていたが、その時の清国の通告文書は、「属邦保護の為」と記してあり、日本としては、(同条約で、朝鮮の独立というものを清国に認めさせる内容となっていた為、)その様な内容(の通告文書)を認める訳にはいかぬ。」と衝突し、日清戦争に繋がった。
E 1894〜1895年        日清戦争
F 1895年4月17日        下関条約調印
 我が国は中国より、台湾割譲と遼東半島の租借権を得た。

G 同年4月23日           三国干渉。
 露・仏・独の三カ国は強力な圧力を加え、我が国が下関条約で獲得した遼東半島を中国へ返還させた。しかし、非常に理不尽な事に、その後、ロシアは、中国より、遼東半島の租借権を得て、旅順に大要塞を築き、その事が、後の日露戦争に繋がっていった。
H 1900年(明治33年)      北清事変(義和団事件)。

 中国・北京にあった英・米・仏・露並びに日本他の公使館が中国の「義和団」に襲われた為に、8カ国が連合軍を組んで戦ったこの戦争では、日本軍が最前線に出て、最も勇敢に戦い、義和団を鎮圧後、略奪や婦女暴行をしなかったのは、日本軍だけであった、ということである。その為、特にイギリス軍は日本軍並びに日本に対して大きな敬意を抱いた。そしてその事が、後の「日英同盟」に繋がっていったのである。しかし、米国はこの日英同盟を快く思っていなかった。いつかはその日英同盟を破棄させようとしていた。そして、1921年(大正10年)ワシントン軍縮会議において、日英同盟を破棄させたのである。
I 1902年(明治35年)      日英同盟締結。
J 1904〜1905年(明治38年) 日露戦争。
 ロシアが政治的、軍事的に大韓帝国に食い込んで来た。それを放置しておくと、我が国の脅威となりかねない状況となり、我が国はやむを得ず、当時、世界一の陸軍国であり、世界第二位の海軍国であったロシアと開戦した。

K 1904年8月22日        日韓議定書(一種の日韓保護条約)締結。
 大韓帝国(当時)は我が国の保護国となった。

L 1906年             米国は、我が国を仮想敵国とした「オレンジプランを策定し、以後、定期的に見直しを計った。
M 1909年(明治42年)      朝鮮人・安重根が我が国の初代首相であり、当時、朝鮮総督府の統監であった伊藤博文を暗殺した。その事が当時の大韓帝国の大きな負い目となり、日韓併合に繋がっていった。
N 1910年(明治43年)8月、「(当時会員数が100万人を超えていたという)一進会」という(当時の)大韓帝国の大きな民間団体を始め、朝鮮側の強い要請を我が国が受け入れる形で、日韓併合条約を締結し、李氏朝鮮は我が国に組み込まれた。しかし、我が国は、李朝の一族は、王侯族として、皇族に準ずる扱いをした。また、我が国は、その後、朝鮮に莫大な予算を注ぎ込み、(非常に遅れていた)各種インフラの整備に努力すると共に、朝鮮全域に学校を作り、(同様に非常に遅れていた)教育にも非常に力を尽くした。
O 1914〜1918年(大正7年)  第一次世界大戦。
P 1919年 パリ講和会議開催、国際連盟規約の決定、ヴェルサイユ条約締結。
 我が国は、その時、「人種差別撤廃」を主張したが、委員長ウイルソン(米国)が中心となって反対し、不採択となった。要するに、我が国が後に植民地解放「大東亜共栄圏構想」を打ち出したのは、決して唐突な事では無く、その頃既に、(というよりも、明治の初期から)同様の植民地解放という考え方を強く持っていたのである。
Q 1921年(大正10年)      ワシントン軍縮会議。日英同盟破棄。
R 1924年(大正13年)      米国は、「我が国からの移民(日系米人)の土地の所有を禁じ、日系米人の所有する土地を取り上げる」という全くとんでもない「排日移民法」を制定し、日系米人の迫害を始めた。
S 1928年(昭和3年)5月3日   「済南事件」、当時、中国の済南市にいた我が国の居留民、約60名が中国の保安隊に襲われて、惨殺、陵辱され、略奪を受けた。その後も同様の事件が頻発した。
21.1929年(昭和4年)       ウォール街の大暴落に端を発し、世界大恐慌となる。
22.1931年(昭和6年)       満州事変。
23.1932年(昭和7年)       満州国、建国。
24.1936年(昭和11年)12月12日、西安事件、張学良は蒋介石を逮捕、監禁し、周恩来も加わり、結果的に国共合作が成り、反日・抗日の気運がより一層高まっていった。
25.1937年(昭和12年)7月29日、 「通州事件」、済南と同様、当時、中国の通州に居た我が国の居留民、約200名が蒋介石配下の部隊に襲われ、惨殺、陵辱、略奪を受けた。中国では、反日・侮日的な事件が続いた。
26.1937年8月9日         大山大尉惨殺事件→第二次上海事変→支那事変勃発、同年11月9日、日本軍は上海全域を制圧した。蒋介石軍は南京に逃れ、日本軍はそれを追った。日本軍が南京に到着する前に、蒋介石は南京から逃げ出し、NO.2の唐生智も南京が陥落する前に逃げ出してしまった。
27.1937年12月10日〜同年12月12日  南京の戦い。
28.同年12月13日          日本軍、南京に入場。日本軍とほぼ同時期に、世界のマスコミ関係者約300人が、南京城内に入り、当時の南京の状況を世界に向けて、詳しく報道を続けていた。要するに、衆人監視の状態だったのである。 (当時の記録によると、)当時、南京市内には、約20万人の中国人・民間人が居た。約一ヶ月後に、人口は約5万人増えていた。当時、南京大虐殺などという言葉もなかった。当時、日本から派遣されていた記者何名もが、「当時、南京で、日本軍による虐殺、などという話を聞いた事もないし、見た事も無い。」と証言している。南京大虐殺の有力な証拠と言われていたリポート並びに本を書いた「ティンパーリーとスマイス」は何と、二人とも、当時、蒋介石・国民党軍に雇われていた広報部員であったという事が、最近明かとなってきている。
29.1939年(昭和14年)9月    第二次世界大戦勃発、欧州戦線始まる。当初はドイツが圧倒的に優勢であった。
30.1940年(昭和15年)      ドイツがフランスを占領。ドイツの傀儡政権「ビシー政権」を樹立する。ドイツはイギリスとロシアに対しても猛攻を加えていた。イギリスは米国にさかんに援軍要請を続けたが、米国国民の多くは、当時、厭戦気分が非常に強く、欧州に援軍を送る事が出来ない状況が続いていた。しかし、米国のフランクリン・ルーズヴェベルト大統領は、どうにかして、欧州に軍隊を送りたい、と思っていた。
31.1940年             日独伊 三国軍事同盟締結。
32.1941年(昭和16年)、 米国のフランクリン・ルーズヴェルトが三選を果たした。その際の最大公約が、「戦争には参加しない」ということであった。その為、尚更、米国は英国からどんなに強く要請されても、欧州に援軍派遣は出来ない状況が続いていた。
33.昭和16年7月25日、 米国は、在米日本資産凍結を発表した。
34.同年7月26日、 英国も在英日本資産凍結を発表した。 同時に、日英通商条約及び日印通商条約並びに日ビルマ通商条約の破棄を通告した。
35. 同年7月27日、オランダも、日本資産凍結令、並びに日蘭石油民間協定の廃止を公表した。
36. 同年8月1日、ルーズヴェルトは対日石油禁輸強化を発令した。
37.1941年8月9〜14日       米国のルーズヴェルト大統領(当時)と英国のチャーチル首相(当時)は、大西洋上で数日間、洋上会談を開き、如何にして、米国が欧州に軍隊を送るか作戦を練り、その結論として、「ドイツと同盟を結んでいる日本を追い詰めて、日本が第一撃を撃たざるを得ない状況に追い込み、日本が攻撃してきたら、日本に反撃すると同時に、『日本と同盟を結んでいるドイツも許さない』という理屈を付けて、欧州にも軍隊を送ろう」というシナリオを作り、その後、そのシナリオどおりに、英米両国が中心となって、ABCDラインによる経済封鎖をかけ、我が国を追い込んで行った。それと同時に、米国は、同年8月、日本と戦っていた中国・蒋介石軍に対して、戦闘機と共にパイロットまで送り込み、日本と戦い出した。それらのパイロットは「フライング・タイガー」と呼ばれていた。要するに、米国は、我が国の真珠湾攻撃よりも、数ヶ月早く、我が国を攻撃していたのである。それだけでは無く、早く支那事変を終結させたいと思っていた我が国の意に反して、その相当以前より、英・米・仏等は蒋介石軍に対して、武器・弾薬などを送り込み続け、結果的に支那事変を長引かせる元を作っていた。
38. 同年11月26日、米国の我が国に対する事実上の宣戦布告書であった「ハルノート」が我が国に手交された。
39. 同年12月8日の我が国の真珠湾攻撃の後、当初の計画どおりに、我が国に反撃すると同時に、米国は欧州にも軍隊を送り、欧州戦線にも本格的に参戦したのである。
40. 真珠湾攻撃の報を受けたチャーチルは「『良かった、これでこの戦争に勝った。』と言って喜び、感激と興奮に満たされ、救われた気持ちで感謝しながら眠りに付いた。」という。 当時の米国陸軍長官、スチムソンは、この日の日記に、「それはたまらなく面白い事だった。今や、ジャップはハワイで我々を直接攻撃する事で、問題全部を解決してくれた。」と書いた。フランク・ウォーカー郵政長官(当時)は、「大統領は、何週間ぶりに心底ほっとしていることと思う。」と書いた。】(【 】内は中村粲著「大東亜戦争への道」より、【 】内のその様な事実は、今現在、相当数の米国人が知る様になっている。)
41.現在、パールハーバーのアリゾナ記念館では、「当時、日本がこの様な攻撃をしたのは無理がなかった面があった」と説明している。処が、誠におかしな事に、当の日本人の多くが、一方的な贖罪意識を抱いているのである。



3.米国の占領政策

@ 米・英は、我が国の「硫黄島玉砕」や「特攻隊攻撃」を含めたあまりの勇敢な戦い方に対して、大きな怖れを抱き、我が国が二度と欧米の脅威とならぬ様にしなくてはいけない、と考えた。
Aそして、余りにも立派な日本人を精神的に骨抜きにしなくてはいけない、と考え、日本人精神弱体化政策3R5D3S政策」並びに「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を策定し、それに基づいて日本人に対して一方的な贖罪意識を植え付ける為に、一方的復讐劇でしかない「東京裁判」を行い、「南京大虐殺」なる創り話を持ち出して、我が国の指導的立場にあった人達を見せしめの為に処刑し、フィリッピン憲法を基にして、英文で僅か一週間で作成した「物」を占領下の我が国に押し付け、報道管制をして、NHKの「真相はかうだ」を始めとして、如何に我が国が酷い事をしたかという創り話を長期間報道させ、「教育勅語」を廃止させて、我が国・国民の多くの道徳心を希薄にさせ、「神道指令」を発令して、「靖国神社」に対する畏敬の念を希薄にさせると共に「靖国神社」を疎外化した。教科書を書き換えさせて、我が国の素晴らしい歴史や素晴らしい人物の事に付いて、出来る限り教えなくさせた。逆に多くの日本国民に一方的な贖罪意識を抱かせる様にした。しかし、昭和26年、トルーマンに解任されて、米国へ帰ったマッカーサーは、同年5月1日、米国・上院の「軍事・外交合同委員会」に証人として出席し、「日本が戦ったのは、その多くは、「日本の安全保障の為であった。」と証言している。 
B 「3R5D3S政策」の内容は、具体的には、「3R=復讐(Revenge)、改組(Reform)、復活(Revive)  5D=武装解除(Disarmament)、軍国主義の排除( Demilitalization)工業生産力の破壊( Disindustrialization)、中心勢力の解体( Decentralization→内務省を潰し、警察は国家警察と地方警察に分解する。財閥解体)、(Democratization→日本の歴史的・民族的な思想を排除してアメリカ的に民主化する。日本帝国憲法の破棄、新憲法の制定、皇室・国家と密接な関係にあった「神道」を国家から切り離す。国旗掲揚の禁止。教育勅語の廃止。)、  3Sセックスの開放、スクリーン(映画・テレビ等を活用して、日本人に贖罪意識を植え付ける。)、スポーツ(日本人の弱体化ばかりを進めると、精神的にフラストレーションが溜まってくる事が考えられるので、精力の捌け口として、スポーツを利用し、奨励する。→3S政策を通じて、多くの日本人を快楽主義に向かわせようとした。)(以上、戦後、我が国の政財界の指導的立場の方々を指導され、平成の元号を考えられた、と言われている安岡正篤氏の著書より)



4.我が国教育の問題点

@ 戦後の我が国の歪んだ教育、卑屈な外交姿勢、犯罪発生の増加並びに凶悪化、道徳心の希薄化の責任はマッカーサー・GHQにもあるが、もっと悪いのは、昭和27年、我が国が占領を解かれた後において、マッカーサーの占領統治政策を悪用し、更により一層我が国の教育を歪め続けてきた日教組・全教・社民党(旧社会党)、日本共産党及び偏向知識人、並びに偏向した報道を続けている朝日新聞を始めとした偏向マスコミ各社等々、多くの反日日本人に大きな責任がある。
 今の我が国の学校教育は、我が国の偉大な歴史上の人物として、当然教えなくてはならない多くの人物を教えていない。(KBニュース4月号、5ページ 参照)
そして、その一方、誠におかしな事に、朝鮮の英雄として、李舜臣や柳寛順をわざわざ写真入りで教えている。そして、全くとんでもない事に、「広島に原爆が落とされたのは、当時、広島は軍都であった為である。(だから、原爆が落とされたのは仕方がなかった。)」 という様に、日本人として許すことの出来ない記述の仕方をしているのである。これは一体何処の国の教科書なのか? 今の我が国の教育関係者の頭は狂っている、と言わざるを得ない。この様に馬鹿な教育をしていたら、若者の多くの物の考え方もおかしくなるのも当たり前である。何としてでも、我が国の正気を取り戻す様な教育に変えなくてはいけない。
 但し、若者の立場としては、「学校の教科書だけで勉強していたのでは、歴史観・国家観・世界観がズレでしまう。」という事を充分認識して、教科書以外の近代史に関する真実の歴史に付いて書かれた本を多く読んで勉強しなくてはいけない。(どの様な本を読んだら良いか知りたい人はいつでも小生の方に御連絡下さい。いくらでもお教え致します。)


5.インドネシア独立戦争

@昭和17年3月1日、今村中将率いる日本軍第16軍第48師団がインドネシアのジャワ島に上陸、同年3月6日、スラバヤを占領し、同年3月10日、日本軍はジャカルタを占領。オランダ軍を追い出した。
Aオランダは、約350年間、インドネシアを植民地として統治したが、その間、インドネシアの人々には、主食であるお米はあまり作らせず、商品として高く売れて儲かるサトウキビや胡椒等の商品作物だけを強制的に作らせた。その為、インドネシアの人々は飢えに苦しむ時さえもあった様である。
B オランダは、インドネシアの人々に教育は全くと言ってもよいほどしなかった。
C しかし、日本軍は、僅か3年半の軍政統治の間に、(それまで決まっていなかった)標準語を決め、インドネシアの青年達を集めて「青年学校」を創り、基礎学力教育と軍事教育をした。同時に、「我々は、日本を護る為と、『アジアを開放する為に』戦っている。しかし、真の独立は、自らの血と汗を流して勝ち取らなくてはいけない。」と訴えた。
 その様にして、日本軍に直接・間接に教育されたインドネシアの青年は3万人とも5万人とも言われた。

D 昭和20年8月15日、残念ながら、我が国が敗戦した後、イギリス軍とオランダ軍が再占領する様な姿勢で、インドネシアに入って来た。
E そこで、日本軍に教育されたインドネシアの青年達が「もう二度と植民地にはなりたくない」と思って立ち上り、独立義勇軍「ペタ(インドネシア語で独立)」を組織して、英・蘭軍とゲリラ戦を主体に戦い出した。(イギリス軍が引き揚げた為、昭和21年からはオランダ軍と戦った)
F しかし、実戦の経験の無いインドネシアの青年達は、英・蘭軍に一方的に敗れる場合が多かった。
G 日本軍には、武装解除命令と、本国への帰還命令が出ていたが、「インドネシアの青年がオランダ軍にどんどん殺されるのを放って帰国する訳にはいかない」と考える(元)日本兵が各々の判断で、「ペタ」に加わり戦い出した。その総数は約1,000名にも及んだ。
H 約4年半の独立戦争を戦い抜き、1949年12月27日、インドネシアは漸く独立を勝ち取る事が出来た。
I この独立戦争で(元)日本兵は約700名が戦死した。
J 生き残った約300名の(元)日本兵の多くは、現地の女性と結婚し、インドネシアでその後の人生を送られた。
K それらの(元)日本兵の方々の中で、現在、生き残っておられる方はインドネシア全土で16名、その内、ジャカルタには7名となり、お元気に御自分で動ける方は宮原永治さん(83才)と藤山秀雄さん(82才)のお二人だけとなってしまっている。


6.(元)日本兵の方々の互助会組織「福祉友の会」

@ 1979年7月14日、設立
A 戦時中、インドネシアで看護婦他のお仕事をしておられ、戦後帰国されて、東京の築地で小料理店を経営しておられる小倉みゑさんが、この会に対して、何と3,500万円もの多額の寄付をされた。
B その「福祉友の会」は今、二世の人達が中心となって運営しており、日本への留学生に対して、奨学金を送ったり、日本からインドネシアへ来られる方々のお世話をしたりしている。


7.インドネシアの日本に対する姿勢

@ インドネシアの独立記念日は、(我が国ではもう使用していない)皇紀2605年8月17日(1945年8月17日)である。それは、日本のお陰で独立出来た、という思いが込められているのである。
A (恐らく、同じく日本に対する思いが込もっている様であるが)インドネシアの国旗は、我が国の国旗に似て、白と赤の二色旗である。
B インドネシア独立戦争で戦われた(元)日本兵の方々はインドネシア政府より、「ゲリラ勲章」を受けられ、死後は「国立カリバタ英雄記念墓地」に丁重に儀仗隊に担がれて埋葬されている。
C 村山富市が首相時代に、「我が国は、過去の一時期、国策を誤り、アジアの国々の多くの人々に多大な苦痛を与え云々…」という「謝罪談話」を発表したが、これは、歴史を全く不勉強な為の余りにもお粗末極まりない内容である。我が国とは比較にならぬくらいに、長期間に亘って、世界中で侵略を続け、過酷な植民地支配を続けた欧米の国々でさえ、その様な発表は全くしていない。そもそも大東亜戦争終結後、東京裁判で日本に一方的罪を着せようとする迄は、欧米諸国には侵略という概念自体さえ無かった。」のである。(「 」内は宮原永治氏、談)



8.「大東亜戦争の意義」と「インドネシア独立戦争」

 米国は、今回の「イラク戦争の目的」を途中から、「イラク国民を解放する為である」と主張して、戦った。しかし、米国の戦争目的が、その様に純粋なものとは到底受け止め難い面がある。もしも、その様な言い方が許されるのであれば、我が国が多大な犠牲を払って戦った「大東亜戦争」はイラクの様にただ一国を対象にしたものでは無く、まさしく、「(欧米の植民地となっていた)アジア全域を開放する為に戦った」のである。少なくとも各戦地で戦った当時の日本人、我々の父祖の方々はその様な気持ちを強く抱いて戦われたのである。だからこそ、我が国の敗戦後でさえも、約1,000名もの(元)日本兵の方々が、敢えて日本に帰らずに、インドネシアの独立戦争を4年半も戦い抜かれ、約700名もの方々が我が国の戦後において、戦死されたのである。
 人類の長い歴史上、自分の国の為、或いは自分達民族の為に戦った例は数限りないが、我が国の「大東亜戦争」の様に(自国以外の他の)多くの国々の独立の為、開放の為に戦った例は他に無い。
 我々日本人は、(真の日本人であるならば、)その事をもっと素直に認識し、我々の父祖の方々に対して、深い敬意と感謝の誠を捧げるべきである。リンカーンは「黒人奴隷を解放した」という事で、今でも偉大な大統領として称えられている。
 我が国は、誠に残念ながら戦争には敗れたが、「アジアを開放する」という戦争の大目的の一つは、結果的に見事達成したのである。大東亜戦争前の世界の独立国の数は、約60カ国現在世界の独立国は200カ国となっている現状をもっと素直に観るべきである。多大な犠牲を払って、我が国が大東亜戦争を戦ったことによって、結果的には、アジアのみならず、アフリカも含めて、直接・間接的に世界の多くの国々を開放したのである。
 100年後か200年後において、日本という國は『大東亜戦争』を通じて、直接・間接に(それまで、長期間、欧米の植民地となっていた)世界の国々を開放するという、人類史における大偉業を達成したのである」という歴史観が極く、当たり前に受け入れられる時が必ず来るはずである。
 我々日本人は、しっかりとした歴史観・国家間・世界観を持ち、日本人としての自信と誇りを持たねばならない。同時に、日本人としての自信と誇りを持てる様な教育に変えると共に、独立国としての自信と誇りを持った堂々たる主体性のある外交をする様にならなくてはいけない。
 「国立カリバタ英雄記念墓地」に眠っておられる(元)日本兵の皆様並びにインドネシア各地の土となっておられる皆様並びにインドネシア独立戦争を戦われた皆様並びに広く各戦地の土となっておられる皆様並びに我が国を護る為に戦われて散華され、靖國神社に祀られている父祖の皆様並びに大東亜戦争を戦われた後、復員され、焦土と化した我が国の戦後復興の為に必死の努力をされた多くの我が国の父祖の皆様に対して、衷心よりの感謝と敬意の誠を捧げます。 
 我が国を護る為に散華された多くの父祖の皆様、どうか安らかにお眠り下さい。 合掌

 以上の様な史実を充分理解すると共に、以上の考え方を大切にして、4年間の学生時代を悔いの無いものにして下さい。そして、卒業する時には、日本人としての自信と誇りを堂々と持てる日本人と成って下さい。                                   以上

平成15年6月